二国間情報
ポーランド戦後政治略史
1.社会主義体制時代(1948~81年)
(1)社会主義体制期は、大きく分類すれば①スターリン主義時代(1948-55年;ビエルート第一書記)、②改革・再統制時代(1956-70年;ゴムウカ第一書記)、③対外開放期(1970-80年;ギエレク第一書記)、④「連帯」運動と戒厳令、体制内改革期(1980-89年;ヤルゼルスキ首相、カーニャ第一書記)に分けられる。
(2)ビエルートはソ連の強力な干渉の下でスターリン主義的な独裁体制を敷いたが、彼の死後、1956年のポズナン暴動をきっかけに、国民の民主化要求が高まり、ゴムウカが第一書記に復帰、改革を行いつつ再統制を試みた。しかし、ゴムウカ時代は、1968年の知識人による抗議行動、また1970年の経済不振と食料品の大幅値上げに端を発する労働者によるグダンスク抗議行動により終わりを告げた。
(3)ギエレク新政権は、経済改善により国民の不満を解消しようと試み、積極的な外資導入を行った。一時期は国民所得の増加も見られたが、粗放な投資等で経済は崩壊的状況となり、1980年7月には食肉値上げに反対する大規模ストが起こった。この年の8月、政府はスト労働者との間でいわゆる「グダンスク合意」を結び、これにより、ソ連圏では初めての自主管理労働組合(「連帯」)が誕生した。
(4)1980年9月、ギエレクの後をついだカーニャ第一書記は「グダンスク合意」を尊重し、「連帯」との対話路線をとったが、ソ連の圧力や国内の緊張が高まり、1981年10月、軍人出身のヤルゼルスキ首相が党第一書記を兼任、同年12月、戒厳令を導入した。
2.社会主義体制の終焉と円卓会議(1981~89年)
(1)1983年7月には戒厳令が解除され、ヤルゼルスキ政権は社会主義の枠内での経済改革を試みたが効果は上がらず、1988年春、夏には再び労働者の抗議運動が高まりを見せた。「連帯」等の在野勢力の協力なしには改革が行き詰まると考えたヤルゼルスキは翌1989年1月の党中央委員会総会で「政治的多元主義、労組多元主義」を認めさせ、反体制側との対話の道を拓いた。
(2)1989年2~4月に体制側、反体制側が一つのテーブルについて今後の政治運営につき話し合った「円卓会議」は事実上の憲法制定会議ともなった。6月の部分的自由選挙では「連帯」系が勝利を収め、その後ワレサ連帯委員長のイニシアチブにより、9月にはマゾヴィエツキが首相に就任、旧東側ブロックでは初めての非社会主義内閣が誕生した。なお、円卓会議での合意により大統領制が復活、ヤルゼルスキ国家評議会議長が初代大統領に選出された。
3.民主化以降(1990~現在)
(1)マゾヴィエツキ内閣は経済再建と民主化の徹底に取り組んだ。特に副首相兼蔵相を務めたバルツェロヴィチが実施した「ショック療法」(いわゆるバルツェロヴィチ改革)は、その後のポーランド経済発展の基礎固めとなった。1990年11月には初の直接自由選挙による大統領選挙が行われ、ワレサが大統領に当選した。翌1991年1月には無名に近かったビエレツキが首相に就任、同年10月には初の自由総選挙が実施された。しかし、小党乱立状態の議会は安定せず、連帯系政府とワレサ大統領の関係も悪く、内閣は次々と交替した。
(2)1993年、スホツカ内閣の不信任に伴う総選挙では旧統一労働者党系の民主左翼連合(SLD)と農民党(PSL)が勝利し、SLD・PSL連立内閣が成立した。同内閣はバチカンとの関係を規定するコンコルダートの締結や、新憲法採択を行い国政の基礎固めを行ったが、1997年の総選挙では連帯を中心とした連帯選挙行動(AWS)が返り咲き、自由同盟(UW)との連立政権が樹立された。しかし、4大改革(地方自治、健康保険、年金、教育)の実施に伴う困難、絶え間ない内部対立、汚職の蔓延等によりAWS政権は大幅に支持を下げ、2001年9月の総選挙では惨敗、再びSLDに政権を譲った。なお、大統領選挙に関しては、1995年の選挙でクファシニエフスキSLD党首(当時)がワレサ大統領を僅差で破り、二期連続で2005年まで大統領を務めた。
(3)民主左翼連合(SLD)と労働同盟(UP)によるミレル内閣は、2004年のEU加盟等の成果を挙げたものの、失業問題、医療制度改革等において有効な対策を示せず、また汚職等のスキャンダルに塗れ支持率を急激に落とした。2005年の総選挙では、旧連帯系の「法と正義」(PiS)と市民プラットフォーム(PO)の2党が第1党の座を争い、PiSが勝利した。また同年の大統領選においてもPiS出身のカチンスキ・ワルシャワ市長(当時)がトゥスク市民プラットフォーム(PO)党首を僅差で破った。
(4)「法と正義」(PiS)は、2006年から「自衛」及びポーランド家族同盟(LPR)と連立を組み、軍情報機関の再構築、中央汚職対策庁(CBA)の設立等の自党の政策実現を進めてきたが、2007年8月に連立を解消するに至った。同年10月21日の任期前倒し総選挙では、市民プラットフォーム(PO)が勝利し、11月16日にPOと農民党(PSL)の連立によるトゥスク内閣が発足した。(了)