日本美術技術博物館
日本美術技術博物館の建物
写真提供:Grzesiek Mart
日本美術技術博物館の建物
写真提供:Kamil A.Krajewski
カタジナ・ノヴァク館長のご挨拶
30年前の1994年11月における日本美術技術博物館「マンガ」の開館は、ポーランド人美術収集家フェリクス・「マンガ」・ヤシェンスキが収集した極めて貴重な日本美術コレクションを展示する場所として、著名なポーランド人映画監督アンジェイ・ワイダとその妻クリスティナ・ザハトヴィチ=ワイダのイニシアティブと思念に基づいて設立された、ユニークな施設の創設という数年にわたるプロセスの幕開けとなりました。
過去数十年間において、ポーランドと日本との間では、政治や経済の変化にかかわらず、文化、社会活動、政治及び経済の各分野において多様で豊かな交流が続けられてきました。1994年の日本美術技術博物館の開館は、展示会、展覧会や会合の開催、そして我々にとって重要な外交上の要人訪問を通じて、これらの二国間関係の強化に貢献しました。
1994年11月30日、当時のレフ・ワレサ大統領と高円宮殿下により、「マンガ」館は開館されました。その時から、開館したばかりの「マンガ」館は、外交における重要な拠点として位置付けられました。このことは、2002年7月11日の天皇皇后両殿下の公式御訪問、2015年の高円宮妃殿下の御訪問、2019年6月29日の秋篠宮皇嗣同妃両殿下の御訪問等の数々の訪問によって間違いなく確認されました。
あの年の11月から現在までの30年間において、数十もの素晴らしい展覧会、数多くの会合、公演及びワークショップが開催されてきました。1999年には茶室と庭園、2004年には日本語学校、そして2015年には欧州・極東ギャラリーが建設されました。これらの年月を通して、「マンガ」館は多くの来館者(年間約20万人)を獲得し、数々の賞を受賞しています。現在においてもポーランドで唯一の日本及び極東の文化を紹介する国立の施設です。
創設者であるアンジェイ・ワイダが日本文化に魅了されたのは、ナチス占領下の困難な時に19歳の彼が(クラクフ旧市街広場の)織物会館でフェリクス・ヤシェンスキの日本美術コレクションの展覧会を鑑賞した時でした。その時、彼はクラクフに駐留していたナチスに拘束される危険性が高いにもかかわらず展覧会に足を運びました。彼は、展覧会を見て日本美術に心から魅了され、「これまで目にしたことのない明るさ、光、規則性、調和の感覚と出会った。それは、北斎、広重、歌麿の作品という真の芸術との人生で初めての出会いであった。」と後に語っています。
1958年以降、日本の観客は、アンジェイ・ワイダの映画作品を日本で観ることができるようになりました。「地下水道」、「世代」、「灰とダイヤモンド」に続いて、「夜の終りに」、「蝿取り紙』」などが上映されました。日本におけるアンジェイ・ワイダの知名度が上がり、日本の観客は彼の作品に夢中になりました。その背景には、アンジェイ・ワイダがたびたび「日本映画界の貴婦人」と称した高野悦子氏が1968年から支配人を務めていた岩波ホールの存在がありました。その当時、ワイダ夫妻は何度も日本を訪れ、映画上映会に出席し、映画評論に参加し、演劇公演を行いました。日本、そして日本の芸術・文化は、常に二人の心にあり続けました。彼らは、日本の素晴らしいアーティストと出会い、夢を実現する形で公演を準備しました。例えば、女形の役者である五代目坂東玉三郎と共同で「ナスターシャ』という演劇及び映画を作成し、坂東氏がムゥイシュキン公爵とナスターシャの二役を演じました。また、アンジェイ・ワイダ自身が師匠と呼んでいた黒澤明監督、「マンガ」館のユニークな建築を生み出した磯崎新氏など、ここで全てを語りきれないほどの数多くの出会いがありました。
こうして、真の芸術との最初の出会いを忘れなかったアンジェイ・ワイダは、1987年に、既に日本においても著名で評価される監督として、映画製作における生涯の功績とその高い道徳的価値に対して、時に日本のノーベル賞とも称される名誉ある稲盛財団の京都賞を受賞しました。彼は、感動と共に受賞へのお礼の言葉を述べつつ、その賞金をクラクフにおける「日本人の家」の建設に投じたいと述べました。
それが日本美術技術博物館「マンガ」でした。
1988年、アンジェイ・ワイダとクリスティナ・ザハトヴィッチ=ワイダの発案により、京都賞受賞のわずか数か月後に、京都・クラクフ基金が設立されました。その基金の当初の最も重要な目的は、クラクフ国立博物館の日本美術コレクションを所蔵するための建物の建設でした。京都賞はその活動の糧となり、刺激となりましたが、当然ながら近代的な建物を建設するための費用全額をまかなえる額ではありませんでした。そこで創設者たちは、日本の主要都市の駅頭で募金活動を行い、東日本旅客鉄道労働組合や全日本旅客鉄道労働組合に所属する鉄道員たちも募金イベントを開催して支援を呼びかけました。すぐに500万米ドル以上を募金が集まりました。これは、日本でポーランド映画を配給している高野悦子氏、この崇高な理念に賛同するよう働きかけたラジオ・ジャーナリストの秋山ちえ子氏、駅頭での募金活動のみならず自身の資金でも支援してくれた東日本旅客鉄道労働組合の松崎明委員長、クシシュトフ・インガルデン(現在はポーランドの著名な建築家であるが、当時はインターンをしていた)を通じてワイダ夫妻と知り合った著名な建築家・磯崎新氏などの多くの善意の方々の協力がなくては不可能であった。「日本の家」というアイデアに魅了された磯崎氏は、自ら手掛けた壮大な建物の設計を京都・クラクフ基金に寄贈しました。クラクフ当局もこのイニシアティブを支持したため、「マンガ」館建設を記録的な速さで進めることができました。ヴィスワ川沿いに、戦後初めて民間人の努力によって建設された博物館が誕生し、それは後に社会に渡されました。
アンジェイ・ワイダ、磯崎新、クシシュトフ・インガルデン
「マンガ」館は、フェリクス・マンガ・ヤシェンスキが収集したポーランドでユニークな日本美術コレクションの「家」です。その大半は浮世絵であり、日本の最も優れた巨匠である葛飾北斎(フェリクス・ヤシェンスキのお気に入りの画家。北斎の「萬画」は、ヤシェンスキが「マンガ」という雅号を採用するきっかけとなった。)、豊国、国芳、写楽、広重の作品も含まれています。数として2番目となるのは、武具の刀剣、鍔、兜、鎧、面具などです。また、象牙や漆器、印籠、根、卓袱台、筆記用具、化粧品、織物、日本の伝統衣装、すなわち着物、帯、そして陶磁器や絵画なども注目に値します。同コレクションはクラクフの国立博物館が所有し、マンガ博物館に寄託されています。
そして「マンガ」館は何よりも博物館として活動しており、ここで開催される古代・現代美術の展覧会は、クラクフ以外のポーランド国内外でも開催されています。その多くが賞を受賞しています。
当館は、長年にわたり、一般の来館者を念頭に置いた魅力的で多彩なプログラムを準備してきました。主要な企画に際しては、日本や極東の歴史、美術史、日常生活、文化、風習に関する重要なトピックについての公開講座も行われます。伝統的な日本音楽だけでなく、現代ジャズやオルタナティブ・ミュージックを紹介するコンサートも開催されます。また、茶道、生け花、盆栽、囲碁、将棋などのクラブや協会もあります。
日本語学校では、日本語及び書道のコース、子供向けクラス、高齢者向けクラスを実施しています。1995年以降は、現在蔵書数が6,500冊を超えている専門図書館も利用できます。創設者であるワイダ夫妻の意向により、2011年に当博物館は、アンジェイ・ワイダの個人アーカイブの所有権を取得しました。
子供たちや若い世代に対しては、極東の芸術と文化に触れられるよう、特別な教育プログラムを提供しています。ちなみに、子供たちはよく当館を訪れており、特別プログラムや「こどもの日」のイベントは、彼らのために設けられています。
当館は、幅広い出版活動を実施しています。その出版物は、展覧会や講演会の記録であり、そして何よりも文化、芸術、建築、人類学などに関する信憑性のある情報源となっています。ポーランドと日本の素晴らしい専門家によって編集されたまさに知識の大系と言えます。。
日本美術技術博物館「マンガ」は、2006年に京都・クラクフ基金から寄贈された作品を中心とした美術工芸品コレクションを所蔵しています。
現在は日本美術が中心であり、中国、韓国及び欧州の美術品も少々所蔵しています。日本文化にインスピレーションを受けたポーランドの美術品も展示されています。また、アンジェイ・ワイダによるデッサン、絵画、グラフィック、スケッチブック、水彩画は、アーカイブとともに寄贈されました。
当館のコレクションは、館内外の展覧会で紹介されています。近年では、コレクターから、日本の伝統的な着物、帯、アクセサリーや、渡辺省亭の非常に貴重なコレクション(絵画、木版画)などの寄贈を受けています。
国際交流基金巡回展「寿司を愛でる」
写真提供:Kamil A. Krajewski
「広重2023」展
写真提供:Kamil A. Krajewski
「バックグラウンド」展
写真提供:Kamil A. Krajewski
現代美術は、国際グラフィック・トリエンナーレの受賞者である著名な日本人アイティスト濱野年宏の作品や、クラクフ国際グラフィック・トリエンナーレ協会から寄贈された現代日本アーティストの作品など、芸術的グラフィック・コレクションに代表されています。また、日本映画のポスター(ヴォイチェフ・ファンゴール、ヤン・レニツァ、ワルデマール・スヴィエジーなどのポーランド人アーティストによるものや原研哉、佐藤晃一などの日本人アーティストによるもの)、写真(ゼーヴ・アレクサンドロヴィッチ、フランツ・シュテンドナー、鬼海弘雄など)のコレクションも充実しています。
日本の古代・伝統美術は、書道、日本画の掛け軸、陶磁器(井上萬二の白磁や京都の陶磁器など)、伊勢型紙の型紙(大杉石美の寄贈)、木版画や書籍(北斎や歌麿)、能面(小倉宗衛)、演劇衣装、美術工芸品、漆器など所蔵しています。
当館のコレクションは、アーティストやコレクター、当館の友人からの寄贈や、追加的な資金調達による購入、独自の資金によって継続的に補充されています。
また、在ポーランド日本国大使館及び同広報文化センター、在日ポーランド大使館、ポーランド広報文化センター、文化・国家遺産省、アダム・ミツキェヴィチ研究所、ポーランド貿易投資庁、ポーランド・日本両国外務省、大学、議員連盟などの機関による当館の活動への参加は、大変価値のある協力です。
この特別な年に、同じく設立30周年を迎えているポーランド日本情報工科大学との格別な協力関係や経験交流も特筆すべきものです。
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アンジェイ・ワイダとクリスティナ・ザフファトヴィチからのメッセージ※
1987年春、戒厳令の真っ只中、稲盛財団・京都賞受賞の通知が日本から届きました。非常に高名な賞であり、45万ドルの賞金額は当時想像しがたいものでありました。その悲しい年に、もらった賞金額を何に充てればよいかの判断は容易なものではありませんでした。
1920年にフェリクス・ヤシェンスキによって国立博物館に寄贈されて以来、日の目を見ることのなかった日本コレクションに、この賞金を充てるアイデアは、以前に短期間だけ同コレクションが公開された時の思い出から生まれました。1944年のドイツ軍による占領時で、クラクフの叔父の家に潜伏し、何週間も外出していませんでしたが、織物会館での日本美術展には何としても行きたかったことを覚えています。当時の私は19歳で、3年前から絵描きを目指していましたが、まだ美術展を鑑賞する機会はありませんでした。そのため、この日本美術展は私にとって初めての展示会となりました。北斎の「神奈川沖浪裏」、歌麿の美人画や広重の「大はしあたけの夕立」は、私の記憶に刻まれ、どこに行っても永遠に私の物となりました。その思いを胸に、1987年11月10日の京都賞授賞式で述べたスピーチです:
この度、会長より京都賞を受賞するにあたり、特別な過去の出来事をお伝えしたいと思います。戦時中のドイツ占領下にクラクフで開催された日本の美術展を鑑賞し、これまで目にしたことのない、明るさ、光、規則性、調和と出会いました。それは、私の人生における、真の芸術との最初の出会いでした。
私は、幸せです。本日受章する京都賞は、ポーランドと日本のみならず、クラクフ日本美術技術博物館という理念を通して、20世紀と21世紀の架け橋となることでしょう。
ヤシエンスキの偉業は続きが必要で、誰かがその役割を背負わなければなりませんでした。妻のクリスティナは喜んで私のプロジェクトを支援しました。しかしながら、私の決断は、日本ではおろか、ポーランドでも何の準備もしていなかったから、たいして期待していませんでした。むろん、私の日本の友人には好感を抱いていましたが、京都から東京に到着したとき、私の守護天使である高野夫人が建築家の磯崎新氏とともに現れて正直驚きました。この世界的に有名な建築家が、私の決断に感動して、美術館の設計を私たちの財団に寄贈したいと言っていると聞いたからです。今は確信していることですが、この瞬間こそがプロジェクト全体の成功にとって決定的でした。日本と世界をつなぐ数少ないアーティストの一人とされる磯崎氏は、彼の善意によって私たちのアイデアに重みを与え、空想から現実へと移行させたのです。
国立博物館の好意があったにもにもかかわらず、京都クラクフ基金の設立は容易ではありませんでした。政府は、我々ワイダ=ザフファトヴィッチのイニシアチブに難色を示し、当時の文化芸術大臣は、数十年前から建設中だった新館の空調設備に資金を充当するよう、私たちを説得するよう博物館経営陣に進言しました。一方、クラクフ市当局は、私たちのイニシアチブを歓迎し、3つの候補土地を提案しました。1988年8月、磯崎新はクラクフを訪れ、選択しました。この決断には、ヴィスワ川とヴァヴェルの丘という2つの要素が決定的な役割を果たしました。クラクフ日本芸術技術博物館は、ヴィスワ川を挟んでヴァヴェルの丘の向かい側という、クラクフで最高の住所を即座に手に入れた。私たちの基金は1989年1月に登録されました。
アンジェイ・ワイダとクリスティナ・ザフファトヴィチ
そして、私たちは自由を取り戻したのです!「円卓会議」、そして1989年6月4日に「連帯」が勝利した選挙は、ポーランドの歴史に新しい時代を切り開きました。この選挙で私はポーランド共和国第1期の上院議員となり、兵藤在ポーランド大使は私たちのプロジェクトの真の同盟者となりました。
日本政府は、ヤツェク・サリュシュ=ヴォルスキ大臣の尽力により、ポーランド・日本間の援助基金から300万ドルを私たちのプロジェクトに割り当てました。日本の友人たちが一般公募で集めた100万ドルは、すでに私たちを目標に近づけてくれていましたが、なんとしてあと100万集めなければなりませんでした。この最後の金額は、東日本旅客鉄道労働組合の鉄道員たちが寄付しました。建設を日本の竹中工務店に委託すること、1993年5月に礎石を据えること、そして1994年11月30日にセンターをオープンすることが、建設の成功の決め手となりました。
実に賢明な決断でした。竹中工務店は18世紀から存在し、世界中に支店を持つ企業だが、そのデュッセルドルフ支店にこの仕事を委託しました。彼らは、オープニングに皇室の代表が出席されることが予定されていたため、彼らは、その期限が最終期限であることをよく理解していました。1993年5月28日、東日本旅客鉄道労働組合委員長出席の下、博物館の起工式が行われました。神主によって、建設予定地に宿る神々がこの地を永遠に守ってくれるよう祝詞が上げられました。ヴァヴェル城を背景に行われた神々との約束の儀式に心から感動しました。.
1994日11月30日、開館日の朝、磯崎新さん、彫刻家である宮脇愛子夫人、そして妻のクリスティナと私の4人は、ヴィスワ川の向こうから共同の傑作品を眺めていました。朝靄に包まれてうっすらと見える屋根と壁のラインが川の流れと平行するかのように写り、50年以上も前にドイツ占領下のクラクフで感じた時と同様に、それは美しい調和を醸し出していました。忘れることのなかった北斎の「神奈川沖浪」が、大胆に優しく、ヴァヴェル城と向かい合う日本の建築物に溶け込んでいました。
我々は幸せでいた。日本美術技術博物館を建設し、天皇陛下を代表する高円宮殿下、そしてそののちにポーランド大統領になった元労働者のレフ・ワレサを迎えることになりました。
どうして日本に特別な関心を抱いたのか、いくつもの可能性があったにも関わらず、なぜこんなにも遠い国に興味を持つことになったのかと、よく聞かれます。
答えは簡単です。日本では、心から親しみ持てる人々と出会いました。言葉も分からず、習慣もほんの少ししか知りませんが、日本人のことをとてもよく理解できるのです。日本人は、真面目で、責任感があり、誠実さを備え、伝統を守ります。それらは全て、私が自分の生涯において大事にしている精神です。日本と出会ったおかげで、このような美しい精神が、私の想像の中だけで存在しているわけではないことが分かりました。そのような精神が、本当に存在するのです。
高野さんはもうこの世にいません。東日本旅客鉄道労働組合委員長の松崎明さんも他界しました。しかし、彼ら、そしてすべての日本の友人たちへの感謝は永遠に続いていきます。
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※本文章は2014年のマンガ博物館設立20周年の際に執筆されたものです。